屋久島シンポ詳報 世界自然遺産登録から30年 島の将来語る
- 2023/10/31
- 朝日新聞
屋久島(鹿児島県)が世界自然遺産に登録されて30年になるのを記念して、10月12日に屋久島町で開かれたシンポジウム「山極寿一と語る 屋久島のこれから」(KKB鹿児島放送主催、朝日新聞社共催、イオン環境財団特別協賛)。ナビゲーターとして登壇した総合地球環境学研究所所長で前京大総長の山極氏と、屋久島を知る3人との対談の内容を紹介します。
関係記事はこちら
https://www.shinrinbunka.com/news/pickup/27084.html
屋久島から「環境文化」世界に発信を
屋久島環境文化財団の小野寺浩理事長と山極さん対談
山極 屋久島にいつ、どう魅せられたのですか。
小野寺 私は環境庁(当時)の役人で、突然、鹿児島県に行けという辞令をもらいました。当時の知事が作ったいくつかのプロジェクトのうち、日本中にアピールできるのは屋久島しかないと直感しました。
山極 小野寺さんも関わって鹿児島県が設けた有識者、エキスパート、島の人からなる三つの委員会が、1992年に屋久島環境文化村構想をまとめました。
小野寺 91年の最初の委員会のとき、国立公園協会の大井道夫理事長が突然、「世界遺産条約というのがある。屋久島を第1号にしろ」と言ったんです。国際条約は国の仕事なんで、県の委員会で言われても困ると思いましたが、そこから出発しました。
山極 島の人たちの委員会では、すんなり世界遺産は通ったんですか。
小野寺 私もそうだし、地元の人たちは何のことかわからなかったと思います。議論の中で感激したのは、地元の主婦も「共生と循環」という言葉を使ったんです。地元の主婦と委員の哲学者の言葉がピタッと合って、三つの委員会を動かしました。
山極 いま環境省は「地域循環共生圏」というのを標語にしています。「共生と循環」という言葉は屋久島環境文化村構想で出てきた概念ですよね。それがいま日本全体の合言葉になり、古びていない。「共生と循環」は日本の環境行政が誇る言葉であり、屋久島できちんとモデル化すべきと思います。
30年を振り返って屋久島は当初に描いた通りになっていますか。
小野寺 私がやろうとしたのは屋久島の素晴らしい自然を核にした、まったく新しい地域振興策。観光客が増えて、経済的利益があったかもしれないが、必ずしもうまくいっていません。そういうことをやるのは時間がかかります。
山極 いま五つの世界自然遺産が日本にあります。30年を契機に五つの地域が交流しようと、小野寺さんの発案で始めましたね。その意図は。
小野寺 ばらばらだと力がないところがある。一方でそれぞれの地域で色々な工夫をしている。屋久島だと里のエコツアーとか集落の歴史を体感するとか。独自の工夫を整理して、自然遺産地域以外にも勇気を与えられるモデルになればと思っています。
山極 この30年、世界遺産を経験してそれを文化にした。それを発展させて新たな文化をつくらないといけない。「環境文化」というコンセプトは屋久島発であり、どんどん世界に発信していただきたいと思います。
増えたガイド 伝統文化どう吸収、生かされるかが重要
屋久島を守る会の初代代表兵頭昌明さんと山極さん対談
山極 「屋久島を守る会」結成のいきさつは。
兵頭 縄文杉が発見された1960年代、全国で公害問題が起きて住民運動がありました。屋久島のことが色々論じられるんですが、島の中からの議論が聞こえてこない。それで屋久杉原生林の即時全面伐採禁止というスローガンを掲げて、10人ほどで会をスタートさせました。
ゴルフ場建設、縄文杉までのロープウェー、石油備蓄基地……。ヨットハーバー構想もあって、止めるのに苦労しました。
山極 よく島がリゾート地にならなかったなあ。屋久島を守る会と一緒に活動していたころ、「屋久島方式」という合言葉があった。島民だけで考えるのではなく、外の人たちも入れてしっかり議論をして、世界に発信するやり方です。
世界遺産になってガイドが増えました。屋久島の自然や文化を持続的に利用していこうというアイデアは生まれていないんですか。
兵頭 ガイドはニュービジネス。そういうものが出てくるとき、地元の血というか、伝統的文化がどう評価され、吸収されていくかが大事だと思うんです。
例えばトビウオ漁は今のような漁ではなかった。もともとは4、5月ごろに産卵に押し寄せてくるトビウオをとるわけです。産卵を終え、夜明けに浮いてくるのを待ち受けてとるやり方だったんです。
山極 屋久島に限らず資源は限りがあるから、それを絶やさないようにとってきた。伝統的なやり方を残しながら持続的に利用していくのはまさに環境文化だと思うんです。それを未来世代に伝えていかなくてはいけない。
次世代に屋久島のことをよく知ってもらい、子どもたちから外からくる子どもたちに教えてあげるようなかたちを残していかなきゃいけないと思うのですが。
兵頭 外から来た子どもに話をすることがありますが、縄文杉がどんな木かと聞くと、「世界一長寿の木」と、すごい知識を持っている。
私は「なぜ切られずに残ったのかというと、一番役に立たない木だったから。昔の人は中が空洞だから手をつけなかったんだ。評価は時代とともに変わるんだ」という話をします。
山極 それが文化ですよね。
兵頭 そういう意味で屋久島は教育の場、学ぶべき場だと思っています。
視点を変えて考えることが大事 「やくしまする」とは?
イオン環境財団専務理事・山本百合子さんと山極さん対談
山本 イオン環境財団が行っている植樹、森づくりはいま1255万本です。次の世代に何を残していくかにフォーカスした環境教育もしています。
口永良部島は2016年に屋久島のユネスコエコパークに加わりました。18年に島内外の子どもたちが両島の未来を考える会議をしました。これを復活をさせて、島の未来について一緒に考える機会を設けたいと思っています。
山極 山本さんから見た屋久島の魅力とは。
山本 島では昔から人間と自然が適正な距離感を持って過ごしてきました。島の植物や動物から、人はどういうふうに見られているんだろう。視点を逆にしたら、私たちは何をすべきなんだろう、と考える場所だと思っています。
屋久島という言葉は単なる名詞ではない。屋久島を次の世代に残していくことを考えたとき、「みなさん、やくしましていますか」というような使い方はどうですか?
山極 「やくしましている」っておもしろいね。だれもが同じように屋久島を思うのじゃなくて、一人ひとりが違う屋久島に出会える。「屋久島イコール縄文杉」だと物足りない。山本さんにとって「やくしまする」とは?
山本 昨日も西部林道でたくさんのサルに出会いましたが、なぜ屋久島のサルは人が近づいても逃げないのでしょう。屋久島のみなさんと動物が互いに敬ってきた長い歴史がなければ、逃げていくと思うんです。サルやシカはどういうふうに人間を見ているのだろうかと思います。
山極 「やくしまする」という意味がわかってきた。おっしゃったことは彼らの変化なんですね。僕が1975年ぐらいに屋久島に来たときは、サルは一斉に逃げました。人を避けていたんです。それが今はべたべたになっています。
いろんな理由がある。島の人たちの暮らしが変わったし、私たちが西部林道に入って調査したこともあり、人とサルの関係が変わった。人との距離や警戒心が変わり、新たな関係が生まれている。
植物だって鳥だって虫だって、屋久島全体の自然がいろんな影響で変わりつつある。その変化を自分で歩くことによって察知できる、新たな出会いを経験できる。それが「やくしまする」ではないかという気がします。
登壇者のプロフィル
やまぎわ・じゅいち 京大霊長類研究所助手、京大院理学研究科教授などを経て第26代京大総長を務めた。京大大学院生だった1975年から研究で屋久島に通い、ニホンザルや原生林を調査。屋久島の西部林道の自然保護などに取り組む「あこんき塾」を立ち上げた。2021年から総合地球環境学研究所(京都市)の所長。
おのでら・ひろし 1973年、環境庁(現環境省)に入庁し、国立公園業務などに従事。1990年から鹿児島県に出向し、屋久島の地域づくり構想や世界遺産登録に尽力した。その後、環境省で自然環境局長などを歴任。現在は屋久島環境文化財団理事長、鹿児島県環境担当参与、大正大客員教授。
ひょうどう・まさはる 屋久島町生まれ。屋久島高校卒。東京航空地方気象台に勤務した後、島にUターン。屋久島を守る会の初代代表として1960年代から、国による大規模森林伐採、国家石油備蓄基地計画、縄文杉ルートのロープウェー構想の中止など、島民を中心とした自然保護運動に携わってきた。
やまもと・ゆりこ ジャスコ(イオン)入社。イオン人事部、社長室秘書部を経て2014年にイオン環境財団事務局長。現在は財団の専務理事兼事務局長。財団は植樹活動を通じて国内外の森林保全に取り組む。2017年に日本ユネスコエコパークネットワークと連携協定を結び、エコパークでの活動にも力を入れる。