モニタリングの最前線を訪問した
日本では現在のところ、海の酸性化が原因で水産物に何らかの被害が出たという事例は報告されていない。しかし、米国の西海岸では2000年代に入ってから二枚貝のカキの養殖施設で幼生の大量死が繰り返し発生し、酸性化による具体的な被害の事例として世界的に注目された。
こうした状況を受けて、国内各地のカキの養殖現場に異変が起きていないかどうかモニタリング調査をする日本財団のプロジェクトが2020年から、NPO法人里海づくり研究会議(岡山市)などのチームによって進められている。21年に広島県、22年には豊後水道などにも調査地点を広げたが、岡山県備前市の日生(ひなせ)地区はその中でも最初に調査が始まった場所だ。同会議の事務局長を務める田中丈裕さんに、現地を案内していただいた。
日生地区は養殖マガキの名産地として知られ、旨みたっぷりのカキを目当てに多くの観光客が訪れる。とりわけ人気なのが、地元名物の「カキオコ」という料理だ。一見すると、ごく普通のお好み焼きなのだが、中にマガキがぎっしり詰まっている。
海に目を転じると、緑の山々に囲まれた入り江に、たくさんのカキ養殖筏(いかだ)が浮かんでいて壮観だ。田中さんと長年つきあいのある日生町漁業協同組合専務理事の天倉辰己さんが小型船に乗せてくれた。海は穏やかで、波はほとんどない。いくつもの養殖筏を横目に見ながら進む。しばらくすると、大きさが2㍍四方しかない小さな筏が浮かぶ場所にたどり着いた。
これが、調査チームが設置した海洋酸性化モニタリング用の観測用筏である。この筏から海中にロープで観測機器がつり下げられている。水温や塩分、そしてpHなどのデータを収集し続けているのだ。
調査が始まったきっかけは19年、神戸市で開かれた国際セミナーだった。米ワシントン大のテリー・クリンガー教授が来日し、米国で発生したカキ幼生の大量死と海洋酸性化について講演した。クリンガー教授の話を聞き、米国では酸性化が大きな問題になっていることを知った田中さんはその後、単身で米国に渡って教授と面会した。現地の状況をさらに詳しく聞く中で、「もしも日本でカキの幼生に異常が起きたら、被害は甚大なものになるだろう」との確信を深めた。
「カキなどの貝類を実際に養殖している現場での調査がぜひ必要だ。日本の現状を把握するために、いますぐ取り組まないと」。そうした思いが海洋酸性化モニタリング調査のプロジェクトという形で実現し、最初に調査を始めたのが日生と志津川湾(宮城県)だった。
田中さんは元岡山県水産課長。「海のゆりかご」と呼ばれ、豊かな海の幸を生み出す「アマモ場」の再生活動に、漁業者とともに取り組んだ経歴をもつ。その信条は「漁業の現場と研究者たちをつなぐ」ことだ。今回のプロジェクトでも田中さんは、カキ養殖の将来像に不安を抱く漁業者と、大学や研究機関の研究者らとの間をつなぐ役割を担っている。
海洋酸性化の現状をモニタリングする最前線の現場――。そう言うと華々しい感じがするが、実際に現場で行われているのは、海水の酸性度を継続的に観測したり、プランクトンネットで採集したカキの幼生の形態におかしな点がないか顕微鏡で調べたりといった、極めて地味な作業だ。しかし、こうした地道な取り組みがあってこそ、いざ異変が起きたときにはすぐに気づくこともできるし、早めに対策を考え、手を打つことも可能になるだろう。
(科学ジャーナリスト 山本智之)