海の酸性化 もう一つのCO2問題

いま東京湾で起きていること

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大都市を背後に抱える東京湾。流域人口は約3100万人にのぼる=山本智之撮影

 

 海の酸性化――。その言葉には、どこか“遠い海の出来事”のような響きがあるかもしれない。しかし実際には、多くの日本人にとって身近な海域で、海の酸性化はすでにかなりのレベルまで進行していることが、最近の研究で明らかになった。その場所は、約3100万人の流域人口を抱える「東京湾」である。

 東京海洋大学の川合美千代・准教授(地球環境学)らの研究チームは、東京湾の酸性化の実態について、2011年から調査を続けている。川合さんは以前はカナダの海洋科学研究所で、研究員として北極海の酸性化について調査・研究をしていた。東京海洋大学に赴任したのをきっかけに、“足元の海”である東京湾についても調べてみることにしたという。

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東京湾で青鷹丸による海洋酸性化の調査。中央の装置は、海水の採取に使う「CTD-ロゼット採水システム」=川合美千代・東京海洋大准教授提供

 

 東京湾の面積は1380平方キロメートル。このうち、神奈川県の観音崎と千葉県の富津岬を結んだラインの内側は「内湾」、ラインの外側は「外湾」と呼び分けている。湾全体の水深は平均で54メートルあるが、内湾は平均で19メートルと浅い。川合さんたちは、東京湾の内湾の羽田沖を調査地点として選び、採水調査に取り組んだ。

 2011年4月から17年12月にかけて、約7年がかりで集めたデータを分析したところ、海水の水素イオン濃度指数(pH)は、夏場の最も低い時には7.47まで低下することが明らかになった(図1参照)。これは、水深23メートルの地点における、底層付近の海水のデータだ。

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 現在は全海洋平均で8.1程度ある海水のpHは、海の酸性化により、今世紀末には7.7程度にまで低下すると予測されている。今回、東京湾で確認された「7.47」というpHの値は、それよりもはるかに低いという点で、驚くべきデータである。

 海の酸性化の程度を示すときに、pHとは別によく使われるものに「アラゴナイト飽和度」がある。アラゴナイトとは、炭酸カルシウムの結晶形のひとつで、たとえば造礁サンゴの骨格などはアラゴナイトでできている。こうした生物が骨格や殻をどのくらい作りやすいかを示す指標が「アラゴナイト飽和度」だ。

 この数値が大きいほど、生物は容易に骨格や殻を作ることができる。一方で、アラゴナイト飽和度が低いと、殻や骨格を形成しにくくなってしまう。米国の西海岸では、海の深い場所からわき上がった酸性度の高い海水をマガキの養殖場で使用したことにより、マガキの幼生が大量死する事例が05年ごろから繰り返し報告された。このときの研究では、海水のアラゴナイト飽和度が1.7以下になると、幼生の死亡率が高まることが明らかになっている。

 ところが、川合さんらが今回集計したデータによると、東京湾ではアラゴナイト飽和度が1.7を下回る事例が、主に夏の時期に毎年繰り返し発生していることがわかった。東京湾の底層で最も酸性度の高い海水が出現したのはpH7.47を記録した13年8月の調査時だが、このときのアラゴナイト飽和度は「0.90」。数値が1を下回っている状態は「未飽和」と呼ばれ、化学的には「貝殻などが溶け始める」とされる衝撃的なレベルの観測結果だ。約7年間の調査期間中に、この「未飽和」の状態は計2回、記録されている。

 夏季の東京湾には、なぜ極めて酸性度の高い海水が出現するのだろうか。

 東京湾は、その周辺に人口が集中しており、河川などを経由して大量の有機物が流れ込む。そして、閉鎖性の強い海域のため、いったん汚濁物質が入り込むと蓄積しやすいという特徴がある。

 こうした条件に加えて、暑い季節になると、東京湾の表面近くには暖かく塩分の低い海水の層が形成され、底層の海水と混ざりにくい状態になる。その影響で、死んだ植物プランクトンなどの有機物が分解されて生じた二酸化炭素(CO₂)が、底層の海水中にたまりやすくなる。その結果として、東京湾の底層に高い酸性度の海水が出現すると考えられている。

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 このように、陸域経由で大量の有機物が入り込む東京湾では、外洋域に比べてアラゴナイト飽和度の変動の幅が5倍以上も大きくなるという。川合さんによると、東京湾の8月のアラゴナイト飽和度は、月平均で「1.3」だが、現在のような「富栄養化」が存在しなかったと仮定して計算すると、その値は「1.7」になるという。つまり、富栄養化の影響だけで、アラゴナイト飽和度は0.4低くなっているのだ。

 そして、湾内の富栄養化の状態がこのまま改善しなければ、大気中のCO₂濃度が500ppmになると、8月のアラゴナイト飽和度の月平均値は「1」になってしまうと予測されるという。これは遠い将来の話ではなく、このまま大気中のCO₂が増え続ければ、2040年ごろに到達してしまう可能性がある「ごく近い将来」の話だ。

 「未飽和の状態がしばしば出現するようになれば、貝類や甲殻類といった炭酸カルシウムの殻をもつ生物は成長しにくくなってしまうだろう」と川合さんは懸念する。

 季節的に海水の酸性度が大きく変動し、ときには生物にとってかなりシビアな条件になることがわかった東京湾。しかし今のところ、海の酸性化の影響による具体的な生物への悪影響を立証した論文は報告されていない。川合さんは「同じ東京湾の中でも、場所によって環境条件は異なる。今後は“点”ではなく、“面”としての広がりのある調査を進め、東京湾における海の酸性化の全体像を明らかにしたい。また、海水の採取と同時に、二枚貝の幼生などのプランクトンも採集して、酸性化による影響について調べたい」と話している。

 (科学ジャーナリスト 山本智之)

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