式根島(上) 天然の実験場
酸性化が進む将来、海はどんな姿になるのか――。私たちにそのヒントを与えてくれる場所として、伊豆諸島の式根島(東京都新島村)が注目されている。
東京の都心から約160キロ。新島の南西にある人口500人余りの有人島で、面積は約3.7平方キロ。島の周辺には、海底から二酸化炭素(CO2)が噴き出して海水に溶け込み、通常よりもpHが低下している場所がある。
つまり、式根島は、酸性化が海の生物にどんな影響を与えるのかを知ることができる「天然の実験場」なのだ。
通常の研究では、酸性化の生物への影響を調べるときには、CO2濃度を高くした海水を入れた水槽で、対象となる生物を飼育して観察をする。ただ、こうした手法では、基本的には種ごとの生物についてデータをとることになる。
これに対して、式根島の海を調査すれば、酸性化が生態系全体にどんな影響を及ぼすのかを探るのに役立つと期待されている。
式根島に拠点を設けて調査を進めているのは、筑波大学下田臨海実験センター(静岡県下田市)の和田茂樹助教らの研究チームだ。
CO2の噴出は島の沿岸など複数の場所でみられるが、メインの調査場所となっているのは、島の南西部にある御釜湾だ。険しい崖に囲まれた湾で、アクセスするには島南部の足付港などから小型船をチャーターして行く必要がある。
御釜湾には以前から、海底から泡が立ちのぼる「海中温泉」が存在することが知られており、ダイビングスポットにもなっている。この御釜湾を筑波大の研究チームが詳しく調べ、海底からCO2が噴き出している「CO2シープ」であることを突き止めた。
シープ(seep)という言葉には、「しみ出る」とか「漏れる」といった意味がある。海水の成分を分析したところ、生物にとって有毒な硫化水素はほとんど検出されず、CO2が海洋生態系に与える影響を探るのに適していることが確認された。
私は取材のため式根島を訪ね、御釜湾の湾内に潜水してみた。岩の割れ目からボコボコと大きな気泡が噴き出している場所や、砂地から小さな泡が立ち上っている場所があった。このうち、水深3~5メートルの岩礁域は、とくにCO2の噴出量が多い。
御釜湾の海水のpHの値は潮の干満などによっても変動するが、場所によってはpH6.9という極端に低い値が記録されたこともある。海水のpHの値は、CO2が噴出している場所に近いほど低い傾向がある。そして、遠く離れるにつれて一般的な海水の値に近付く。こうしたことから、CO2の噴出域に近い場所は、「未来の海底」に似た環境になっていると考えられている。
pHの低下は、式根島の海の生き物たちに具体的にどんな影響を与えているのか、連載の次回で詳しく紹介したいと思う。
(科学ジャーナリスト 山本智之)