田上山の1300年 都や社寺造営で度重なる伐採 今は…
「奈良の大仏さま」を安置する東大寺大仏殿は奈良時代の752年、聖武天皇の発願で創建された。聖武天皇の即位は724年で、今年はそれから1300年になる。
東大寺大仏殿はその後、平安時代、戦国時代と2度も兵火に見舞われ、そのつど再建された。現在の建物は江戸時代に再建されたものだ。東大寺のホームページによると、大仏殿はもともと、東西が11間(約88㍍)に達していたが、江戸時代の再建では7間(約57㍍)に縮小された。現在は南北約50㍍、高さが約49㍍。それでも、木造建築としては世界最大級という。
不安な世の中の動きを感じてか、飛鳥・奈良時代には遷都が繰り返された。藤原京が造営されたが、平城京へと遷都された。その後の聖武天皇の時代も恭仁京、難波宮、紫香楽宮などへ遷都を繰り返したほか、東大寺大仏殿なども建立された。
只木良也著「森の文化史」(講談社学術文庫)によると、東大寺大仏殿の創建では、主要な大柱だけでも直径1㍍、長さ30㍍前後の木材が84本使用された。大仏殿に使用された木材の総体積は1万4800立方㍍と推定されているという。このほか、広大な東大寺の寺域にある数々の建物も合わせると、その木材量は想像を絶すると記している。
たびかさなる都の造営、建築物の建立などで、奈良周辺の山々から造営用材が伐採され、良材が集められなくなっていた。そこで目をつけられたのが、琵琶湖沿岸の森林だったと、只木さんは著書で指摘している。川の水運で大木を奈良の都まで運搬しやすかったとみられている。
特に、滋賀県大津市にある田上山(たなかみやま)から、造営用材をかなり伐採したようだ。田上山は田上山系と金勝(こんぜ)山系の山々の総称で、主峰は田上山系の標高約600㍍の太神山(たなかみやま)、金勝山系の同約605㍍の竜王山(りゅうおうざん)。奈良時代以降も、寺院の建立や京都に近いことから造営用材の伐採が続き、江戸時代には「田上のはげ」として全国に知られるはげ山地帯になったとされる。
その姿は江戸時代の絵図にも描かれている。「江戸時代の『琵琶湖眺望真景図』は琵琶湖から山を見た絵図で、茶色のはげ山が描かれており、荒廃した姿になっています」と大津市歴史博物館の学芸員、高橋大樹さんは話す。
林野庁の「近江湖南アルプス 自然休養林ガイド」も、田上山のことをこのように紹介している。万葉集には藤原京の造営用材としてヒノキを採取したとあり、その後の平城京や東大寺にも造営用材を供給したほか、江戸時代には燃料や灯明のために小柴や松の根まで採取されていた。田上山は浸食を受けやすい花こう岩質であり、自然の回復力を超えた伐採によってはげ山地帯となったとしている。
山からは大量の土砂が流れ出し、地元や下流域は水害に苦しんだ。
江戸時代も対策が講じられてはいたが、本格的な対応は明治時代初期からだ。
その内容は、まず砂防工事、次に山腹工事、そして植林だった。「田上山の山腹工事」(旧建設省・琵琶湖工事事務所)によると、明治11年(1878年)に政府がオランダから招いた治水技師のデ・レーケにより、水源山地の砂防事業に着手。明治26年(1893年)にヒメシャブとクロマツの混植が始まった。
「田上山の山腹工事」は、地肌がむき出しの「とくしゃ地」や、崩壊地に植生を導入する山腹工事について解説している。たとえば山腹基礎工事の「のり切工」は、山腹斜面に不規則な起伏や、急峻なところがあると施工できないため、起伏をなくし、急傾斜地の上部を削って緩傾斜とする。山腹階段工事の「芝積苗工」は、斜面に水平階段をつくり、保水などのために芝や稲わらを敷いて並べ、植栽床をつくるものだ。
こうして、「はげ山から地域に親しまれる森林に復旧した田上山の治山事業」は、林野庁が「後世に伝えるべき治山事業」として選んだ全国60の事業の一つとなった。工期は平成15年(2003年)まで100年以上にわたった。
こうした治山工事により、田上山は現在「はげ山ではない」と林野庁近畿中国森林管理局滋賀森林管理署の担当者は話す。植林された木々が育ってきたほか、山頂には天然林が残っているという。
東海道新幹線に乗車して、琵琶湖付近を通る機会があれば、山に目を向け、1300年にわたる人々の営みを振り返ってみるのもいいかもしれない。
(浅井秀樹)