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北九州・平尾台の「野焼き」どう継承   -新たな協働の創生と地域資源としての草原価値の再構築について

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平尾台で行われた野焼き。尾根の防火帯と裾野から火が放たれる=2023年3月

 

 日本有数のカルスト台地「平尾台」(北九州市小倉南区)は、草原と白く丸っこい石灰岩が織りなす羊群原(ようぐんばる)とよばれる風景が広がる。夏には青々と茂った草が風にそよぎ、野鳥の声や草原性小動物の息づく気配がする。心が洗われるようなすがすがしい場所だ。

 この地は江戸時代から「野焼き」によって草原として保たれてきた。

 

 筆者は平尾台から車で小1時間の京築地区に生家があり、地元からも遠く望むことができる。幼いころから親に連れられて遊びに行ったり、大学時代には鍾乳洞探検をしたりと思い入れのある場所である。名古屋大学大学院に進み、地域研究を志すにあたり、縁あって調査地として平尾台に改めて向き合うこととなった。

 

 日本に残された草原は国土のわずか1%程度となった。高温多湿な日本において草原の維持には野焼きのような人為の火入れが必須であるが、平尾台においても野焼きの担い手は減少傾向にある。調査を進めるにつれ、平尾台の保全と野焼きの継承の重要性を強く感じ、本稿を執筆するに至った。

 地域の人々への聞き取り調査ならびに文献調査を通して、その存続のあり方を考えたい。

 

 3月5日、野焼き当日。福岡県の「平尾台自然観察センター」屋上に設置された消防本部では、北九州市消防局の隊員、北九州市職員そしてM氏をはじめとする東谷地区の地域住民たちが数㌔先の火入れしたエリアを、固唾(かたず)をのんで見守っていた。

 保護地域は約330㌶。全域を午前と午後、計3回に分けて、1日で野焼きする。例年2月中旬に行うが、天候などで今年は2回延期となり、好天に恵まれたこの日にようやく決行された。

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火炎放射器で付けた火が、たちまち燃え上がった=同

 

 尾根の防火帯から野焼き従事者が裾野に向けて付けた炎が、もうもうと煙を上げながら、乾いた茅野をなめるように燃え上がらせた。

 斜面下部からの向かい火はすでに別隊によって放たれていたが、下方から上方へ上る炎の速度はすさまじく、時速40㌔に迫らんとする勢いで斜面をはいあがる。現地の風は裾野から山頂へ吹き上げているようで、あおられるたびに火柱が立った。

 当日は市の消防ヘリ「きたきゅう」が延焼防止のため終日、空から監視し、事前散水ならびに緊急消火対応に向け援護する。飛び交う消防無線と怒号、そして上空を旋回し続ける消防ヘリのローター音のなか、炎は斜面一体に列をなして地をはい、幾筋も煙が立ち上った。

 地上では地域住民が午前午後で約50人ずつ、総勢102人が11~14班に分かれ、ほぼ同人数の消防職員と一緒になって野を駆け、火炎放射器を片手に火入れする。火入れ区域と順番は事前に厳密に取り決められており、基本的には山の尾根から火入れし、向かい火をふもとから撃ち込むような動線としている。

 やがて野焼きの火が走ったあとには真っ黒に焼け焦げた野原と、白い石灰岩とが織りなす不思議な景色が広がった。風が運んできた茅の燃えたススに触れてみればふわりと崩れ落ちた。

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草原と石灰岩が織りなす羊群原とよばれる風景が広がる平尾台

 歴史的にみると、江戸時代から、人々はこの平尾台の草原を地域資源として活用してきた。平尾台の上からふもとに広がる東谷地区(北九州市小倉南区)周辺は、農業利用する草本を得るための場は平尾台よりほかになく、入会地として厳密に管理されてきた。

 得られた草本は田畑の肥料、牛馬の飼料、かやぶきの屋根材、ばいら(方言で燃料用の小枝)、薬草として利用されたが、質のよい草を採取し続けるには毎年野焼きをする必要性があった。

 

 明治時代から戦争中は陸軍の演習地となり、植林政策の対象から外れたが、戦後、外地から引き揚げ入植した開拓民と一緒になって開墾された。麓にくらべ冷涼な気候で夏にも収穫できた平尾台のダイコンは知名度も高く、畑作地・牧畜地として生活の場となった。

 このころにも、元から住んでいた住民や開拓民が一緒になって、集落ごとの小規模な野焼きを続けてきた。

 そして高度成長期に鉱業開発、観光開発、自然保護の間で揺れ動くなか、1972年に北九州国定公園に指定された。

 これにより平尾台で許可なく草本採取することは住民でさえ禁じられ、お盆の時期に供える野花を得ることもできなくなった。

 化学肥料の台頭により平尾台の草原は農業利用の場としての意義を失い、もっぱら草原と石灰岩がおりなす美しい草原景観で来るものを楽しませる観光地となった。

 

 平尾台を目当てに訪れる観光客は減少傾向にある。北九州市が実施した令和3年度観光動態調査によると、2017年から21年の5カ年をみても観光客数は46.4万人から26.8万人と約40%も減少した。平尾台には観光客を迎える民間施設も片手で数えるほどになってしまった。

 とはいえ、週末になると登山客やライダーでにぎわう。また、地域住民によるエコツーリズムも盛り上がりをみせる。

 毎年3月には、野焼き後の早春の平尾台を駆けるクロスカントリー大会を、市を挙げて実施している。

  進む地域住民の人口減少

 そんな平尾台の美しい草原景観は、野焼きなくしては維持できない。秋にはススキ野原となるが、乾燥した茅野を放置し続ければ火災の原因となりうる。ダニなど病害虫が増えるのを防ぐにも、草原を安全に維持管理し続けるには、やはり野焼きが必要である。

 

 しかし、少子高齢化の波は平尾台のある東谷地区にも例外なく押し寄せる。東谷地区は人口減少に加え、2031年には65歳以上が約半数になるとの予測もなされている。

 そんななか、「より安全な野焼きを」と、1993年から設置されるようになった『防火帯』は総延長およそ8㌔、幅20㍍にわたって尾根に延びるが、延焼防止のため非常に重要な意味をもつ。これは市から業務委託された地域住民が秋口のまだ暑い時期に草刈りをし、そのエリアを焼却することで完成する。一方、地域住民にとっては尾根まで装備をもって足場の悪いなかでの作業となるため、体力的に最もきついという。若者の人手が必要なのである。

 

 そして先述した地域住民のM氏(70代男性)は、若いころから地域の長老から直伝で野焼きのノウハウを受け継いだ最後の人物であると言っても過言ではない。

 野焼き当日、消防大隊長と一緒になって各班の配置や動線を分刻みで確認し、その時々の天候や火の速度、風向きを基に意思決定を行う、最重要人物の1人である。

 こうした長年の経験に基づく在来知をデジタルデータとして保存することは案として考えられてはいるが、いまだ誰も実務ベースで着手することはできていない。

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野焼きの様子を見守るM氏

 阿蘇、秋吉台はボランティアが協働

 では、どう継承していくべきか。

 他地域を見てみると、同じ九州地方の阿蘇では公益財団法人阿蘇グリーンストックによって野焼きを支援するボランティアが組織されている。全国から登録している一般の野焼きボランティアが2020年時点で約900人にのぼる。野焼き当日の支援だけでなく輪地切り活動(平尾台でいう防火帯設置)も行う。

 阿蘇は約2万2千㌶に広がる草原で放牧するなど畜産が盛んだが、畜産農家の減少や高齢化、過疎化を受け草原維持が困難な状況に陥った。そこで、1999年春に野焼き初心者研修会を実施、当初は地元や行政から人数が集まるか疑問視される声があがったが、初回研修会には予想を大きく上回る290人が参加した(阿蘇グリーンストックHPより)。以降、地元の牧野組合を協働しつつ、継続したボランティア活動が実施されている。

 

 山口県のカルスト台地秋吉台(美祢市)は約4,500㌶の草原が広がる。ここでは『秋吉台山焼き対策協議会』が組織され、さらに火道切り(防火帯作業)には日本労働組合総連合会山口県連合会(連合山口、組合員6万4559人)がボランティアで参加する。19回目の草刈りボランティアの実施となった2022年は、過去最多の680人の組合員が参加した(連合山口HPより)。

 

 これに対し、平尾台は東谷地区の野焼き委員会を中心に300人の地域住民が中心となって実施している。外部ボランティアに援助を求めてはいない。

 なぜだろうか。

 平尾台は阿蘇や秋吉台に比べれば規模は小さい。草原を取り囲むように尾根に設置される防火帯の総延長もおのずと比較的短くなると想像される。

 また、広大で平坦な阿蘇とくらべて入り組んだ丘陵状の地形であり、防火帯設置は傾斜地で岩など足場の悪いなか草刈りをし、体力を要する。入り組んだ地形、谷と尾根のある地形から風向きの変化がはげしく、草刈り後の防火帯への火入れもリスクを伴う。20年10月には防火帯の火入れ作業中に野焼き予定範囲外へと飛び火し延焼した。

 しかし、高齢化と人口減少が進むなか、いずれ体力的に重労働な尾根での草刈りが高齢化に伴い困難になる可能性が高い。阿蘇でも当初、地元や行政は「まさか人が都市からくるとは」と感じたように、まずは平尾台の現状を告知し、体力的に大変な作業でも平尾台の環境維持に共感して協力するボランティアを探すことは案として有用ではないか。たとえば前述の「平尾台自然観察センター」は、散策路周辺の草刈りボランティアを以前から募集しており、すでにいるボランティアを防火帯設置作業に加わってもらうよう頼んでみるのはどうか。

 実際、平尾台でエコツーリズムに取り組み、自身も野焼き従事者である30代男性からは「10年後は現行の体制を維持できるとしても、地域に若者が少ないため20年、30年後にどうなっているかはわからない。そこで、野焼きを『環境教育』として捉え、地域外からの参加を呼びかけてみるのはどうか」といった声が聞かれる。

 環境教育として平尾台の野焼きを捉えなおし発信していくことは、都市に住む地域外の人々が平尾台に関心を寄せ、実際に足を運んでみようとする、1つのきっかけや起爆剤となりうるのではないかと筆者は考える。
 また、防火帯の火入れならびに野焼き当日の火入れでは、地域住民の長年の経験がものをいう。筆者の個人的な所感だが、風向きを読むこと、予定通りにはいかない火の進行速度、野焼き従事者の動線指揮など、現行の「1日で330㌶の草原全てを焼く」にはセンスと強いリーダーシップが必要だ。しかし、いわゆる在来知を継承した者は、今の日本に一体どれほどいるだろうか?

 平尾台の現行の火入れ技術がデジタル化できない在来知によって継承されたとして、後を継げる者が仮にいないのであれば、新たな「平尾台の野焼き」スタイルが必要である。

 たとえば、現在1日で行っている野焼きを2日に分けて実施し、時間的余裕をもってより綿密に空と陸から管理・監視する。

 どうしても管理上1日で焼く必要があるのであれば、草原面積の縮小はやむなしとして「小さな野焼き」に切り替えることを筆者は提案したい。
 野焼き面積が大きくなるほど管理すべき範囲が増え、不確定要素が増え、確認事項が増え、リスクも大きくなる。面積を縮小し、「小さなリーダーシップ」によって実施できる範囲を防火帯で囲んで、野焼きする。

 その場合、どこを草原として残し、どこを森林にかえすのか。それを決めるのは、平尾台を今も自らの手によって守り続けている、東谷地区の地域住民がふさわしいと、筆者は考える。

 平尾台の草原が社会課題に直面する今こそ、関係者が連携し、時に外部のボランティアを募りつつ、具体的な解決策を検討すべきだ。

 (川本明佳里)

※この原稿は名古屋大学大学院 生命農学研究科 森林・環境資源科学専攻 森林社会共生学研究室での修士論文などの内容をもとに執筆しました。

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