兵庫県に学ぶクマ騒動:自然共生の長期的視点を

宍粟市でも2025年はクマが目撃された=2025年11月、兵庫県宍粟市
2025年8月、世界自然遺産の知床でのヒグマによる痛ましい人身被害。続いて東北地方を中心にクマ騒動が報じられ、自衛隊まで出動した。図のように人身被害の増加傾向が続く中、早くからワイルドライフ・マネジメントの意義と重要性を認識して、基礎的研究から現場対応まで、施策を展開してきた兵庫県は、今冬の猟期はなんと、ツキノワクマは禁猟とのことだ。なぜ、兵庫県では制御できているのか。そこには研究と実践、双方のプロを擁する「兵庫県森林動物研究センター」の立ち上げなど20年以上にわたる自然共生を目指す活動が基盤にある。

増加するクマ類による人身被害者数の推移(環境省。2025年は11月まで)
半世紀余前の私事で恐縮だが、筆者が専攻を変えて京都大学農学研究科大学院の林学専攻に進学を決めたのは、たまたま自主ゼミで訪問した芦生演習林(当時)の原生林の自然に魅せられたからだ。その頃『京都の秘境・芦生』(渡辺弘之1970)が人気だった。ミミズの先生が書いた本なのだが、スギの樹皮を剥がし、ミズキの枝に円座を作るクマ談議がその魅力だった。市内からアプローチに1日かかる演習林の入り口の拠点から、更に源流を遡った高原のブナと天然スギの森にクマがいると教えられた。冬は積雪で大変だったが、たどり着いた宿舎には、演習林の技官が仕留めたクマの焼き肉が待っていた。
だがほどなく、その魅力的な芦生の原生的自然のバランスは生態系ピラミッドの頂点である人間の狩猟圧に依存していたことを思い知ることになった。里山では燃料革命と肥料革命、更に拡大造林を機に、氷河時代から継承してきた豊かな生物多様性が失われて行った。これと同時に、奥山の芦生でも「植物学を学ぶものは一度は京大の芦生演習林を見るべし」とまで学会誌で称された植生の、シカ食害が進行。ササや灌木を掻き分けて山中を進む「藪漕ぎ」が死語となり、土砂流出で渓流の生態系まで変わった。一方、人里を跋扈するクマの増加は各地で人身被害の軋轢を生むようになった。
筆者は、2004年と06年のクマ類による人身被害が全国で100人を超えたのを背景に「動物反乱と森の崩壊」をテーマとした年報『森林環境2007』((財)森林文化協会)を編集して、ワイルドライフ・マネジメントの重要性を訴えた。唯一、対策が効果的に進んだ兵庫県には、この巻頭言を頂いた、河合雅雄氏が館長を務められた「人と自然の博物館」がある。地域の生物多様性保全の拠点だ。

「兵庫県森林動物研究センター」の立ち上げまでの準備室業務に3年関わったという、博物館職員の一人は、20年以上地道に取り組んできた成果だという。まず、欧米のワイルドライフ・マネジメントを知る貝原元知事の強い要請、引き継いだ井戸元知事の方針、博物館歴代館長や著名有識者の強力なバックアップと、実務面ではワイルドライフ専門のコンサルタント会社の果たした役割も大きいという。そして、捕獲後、マイクロチップをつけて放獣することで個体数をモニタリング。適切な保護管理を行ってきた。クマ害と格闘する自治体には、兵庫県を直ちに真似ることは困難でも、緊急対応に留まらず、自然共生社会を目指す長期的、戦略的対応を期待したい。
新型コロナ禍と同様、クマ害頻発は生物多様性の危機の顕在化でもある。生物多様性国家戦略では、生物多様性が直面する危機を第1の危機(乱獲や開発など人間活動による危機)、第2の危機(里地・里山管理放棄など自然に対する働きかけの縮小による危機)、第3の危機(外来種など人間により持ち込まれたものによる危機)、第4の危機(気候変動など地球環境の変化による危機)の4種に分類している。
新型コロナ禍は人間活動のグローバル化が背景の第3の危機。一方、クマ害は狩猟圧減少で増え過ぎた野生動物という第2の危機のひとつだ。だから、長期的にはリスク管理を踏まえた自然の保護と再生、自然資源利活用、自然地と生活域のバッファーゾーン等の土地利用のゾーニングと適正管理を、高齢化と人口減少の中で推進する方策に知恵を絞らないといけない。
クマ駆除の緊急対応に対する抗議も激しかったという。確かに、第1の危機と第2の危機対応は矛盾するようにも見えるが、ヒグマと暮らしてきたアイヌ民族の自然観が参考となる。すなわち、ヒグマを山から人間に肉と毛皮を携えてきてくれる「キムンカムイ(山の神)」として崇めて、イヨマンテ(クマの霊送り)の儀礼を行う一方、害をなすクマは「ウェンカムイ(悪い神)」と呼んで区別し、二度と人間界に現れないよう厳しく追い払う、あるいは辱めたという。松田裕之氏(日本生態学会・元会長)は生態リスク学の観点から、シカの場合は個体数管理を、ヒグマはウェンカムイ対策を根本にすることを長年主張されてきた。合意形成には、こうした自然観が有用だと思う。自然共生は自然をよく知ることから始まる。
(京都大学名誉教授、(公財)京都市都市緑化協会理事長:森本幸裕)

