時評

大阪・関西万博のユスリカ騒動~「静けさの森」を「にぎやかな森」へ

夕暮れ時、大阪・関西万博の大屋根リングではユスリカと思われる虫が大量に飛んでいた=2025年6月7日、提供・朝日新聞社

 

 大阪・関西万博会場でユスリカが大発生とのこと。このニュースに接して、大阪の下町にいた子供のころにまとわりつかれた「蚊柱」を思い出した。なぜか頭の上にできる小さな虫の大群の渦巻き。こちらが動くとついてくるのが不思議だった。蚊と違ってユスリカは刺したりしないのだが、不快昆虫ということで日本国際博覧会協会は対策本部を立ち上げ、防虫対策に乗り出したという。しかし「いのち輝く未来社会のデザイン」がテーマの万博だ。この騒動が世界中で激減している「ただの虫」への関心を呼び、深刻な危機対応が本格的に進むきっかけになればいいと思う。

 いかにも思いがけない事態に、協会も当惑しているかのような報道がある。大阪府の吉村知事は5月21日の記者会見で「アース製薬の社長さんに連絡をして、御社の知見をもって、ゼロは難しいかもしれないが、できる限りの対策に協力してほしいと依頼をし、協力をいただけることになった」と述べた。

 でも、廃棄物などで埋め立てたとはいえ、もともとは淀川の河口の汽水域。今は極めて希少となってしまった湿地、草地、汽水池、雨水池、ヨシ原で構成される夢洲には、希少種のシギ・チドリ類が立ち寄る環境が形成されていた。「大阪府レッドリスト2014」では、なんと、生物多様性ホットスポットのAランクに指定されていたのである。

 そうした自然環境への博覧会事業の影響は軽微と評価する環境アセス手続きにおいて、大阪市が2021年12月に実施した博覧会事業の公聴会では、大阪自然環境保全協会がこんな指摘をした記録が残っている。

 「今の夢洲は虫の王国です。多くのバッタ、多くのトンボ、多くのチョウ、そして恐ろしいほどの数のユスリカがいます。改めて影響の有無の調査をお願いしたいと思います」

夢洲に生息していた希少種のセイタカシギ。浅瀬の湿地で採餌する(撮影:大阪自然環境保全協会)

 

 ユスリカの仲間は日本に約2000種もいるとか。清流から富栄養化した側溝水まで、水中で幼虫が育つ。有機物を食べて育ち、物質循環に重要な役割りを果たしている。大発生することも多い。滋賀県の三日月知事は、地元では「びわこ虫」と呼ばれて、ユスリカ大発生は季節の「風物詩」ともなっているとコメント。博覧会場も建設工事が豊かな自然を攪乱したあとの、自然再生が始まった、と見ることができるかもしれない。

大阪・関西万博の大屋根リングの柱にいるユスリカ=2025年5月20日、提供・朝日新聞社

 

 だが、この機会に知ってほしいのが、世界的な昆虫の激減だ。日本では県別の統計データ解析で、水稲栽培に用いられるようになった浸透移行性の殺虫剤の粒剤がアキアカネの激減をもたらしたと報告されたのは2011年。学術誌「サイエンス」に掲載された生物多様性の損失を論じた研究の中で、蝶および蛾については、全世界の信頼できるデータをもとに、個体数が40 年間で35%減少した、と結論づけたのが2014年。2017年にはヨーロッパの研究チームがドイツの63の保護区での27年間のトラップを使った調査結果から、飛翔性の昆虫のバイオマス(生物量)が75%以上減少したと、衝撃的な報告を行った。

 激減の要因の最右翼は新しい農薬を使う集約農業と考えて、EUはネオニコチノイド系殺虫剤の使用禁止や有機農業の推進に舵を切った。昆虫学者Dave Goulsonによる2021年の“Silent Earth: Averting the Insect Apocalypse”(日本語版:ディヴ・グールソン『サイレント・アース 昆虫たちの「沈黙の春」』)の出版がこれを後押しした。昆虫が極めて重要な存在であって、共存することの重要性を訴えたのである。

 レイチェル・カーソンが、『沈黙の春』で「鳥の鳴き声が聞こえない春が来る」と農薬の害を警告したのは半世紀余前だった。個々の農薬の人畜や魚など限られた種に対する実験室での毒性が評価されてはきた。だが、複合的、長期的、標的生物以外の膨大な生物種、しかも現実の生態系の中での間接的影響まで把握されているわけではない。この危機に真面目に取り組むには膨大な研究体制の整備が必要だ。

 G7(主要国首脳会議)参加国の学術会議、Gサイエンス学術会議は共同声明2020「地球規模での昆虫減少による生態系サービスの消失」を取りまとめた。事態は深刻であって、モニタリングと研究体制の各段の充実を訴えている。

 実は博覧会会場の真ん中には約1500本の樹木や池、水盤などの「静けさの森」(約2.3ha)がある。はて、これはサイレント・アースの警告なのだろうか。「いのち輝く未来社会」では鳥の声も虫の音も聞こえなくていいとは思えない。協会は対策本部のつぎに、「にぎやかな森」プロジェクトを立ち上げてほしい。

 (森本幸裕 京都大学名誉教授・(公財)京都市都市緑化協会理事長)

 

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