豊かな自然が低減する感染症リスク/コスモス国際賞が光をあてた「希釈効果」
豊かな生物多様性はなぜ重要なのか。この自然保護の根源的な問いに対して、種多様性豊かな生態系の「希釈効果」という新たな視点の回答が加わりそうだ。
2022年(第29回)コスモス国際賞の受賞者はフェリシア・キーシング博士に決まった。この賞は1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」の基本理念「人と自然の共生」に資する「包括的、統合的」で顕著な業績を顕彰する。博士はアメリカの小さなバード大学の教授(56)で、まだ国際的な著名人とは言い難い。だが、京都大学総長経験者が委員長(尾池和夫氏)と副委員長(山極壽一氏)を務める選考委員会の目に留まったのは何故か。それは、凄まじい新型コロナ禍を経験した世界が、ポスト/ウィズ・コロナ時代に向けた示唆を渇望する時代だからだろうか。
博士は自然生態系を構成する生物の種多様性と、そこに存在する人獣共通感染症病原体が人間社会に伝播するリスクとの関係を研究してきた生態学者だ。フィールド調査と室内での実験的な研究を継続することで、病原体が種を超えて伝播する生態学的メカニズム解明に迫った。その成果をもとに、自然生態系において種多様性が減少することによって、新興感染症や再興感染症の脅威が増すことを早くから指摘してきたのである。
種多様性が高いということは、病原体の多様性も高いがリスクが高いわけではない。でも、種多様性が劣化すると事態は一変する。ケニアでは、大型哺乳類が消えると、まず、げっ歯類のような人獣共通感染症宿主の小型哺乳類の数が膨れ上がって様々な影響が発生する。例えば、増加したげっ歯類はアカシアの幼木の一群全体を食い尽くし、砂漠化をもたらす可能性がある。また、げっ歯類は毒ヘビを引き寄せ、人間に病気を感染させるノミの“宿主”となる。つまり、種多様性の高い自然環境は、低い場合に増殖する危険な種の影響が希釈される。だから、多様性の保全は「希釈効果」によって、人間を感染から守るという具体的で直接的な恩恵をもたらすわけだ。
博士受賞の報に接して、筆者は2人の先覚者が脳裏に浮かんだ。
まず、チャールズ・S.エルトン。生物群集の内部構造「食う食われる関係」に着目し、「生態的地位(ニッチ)」や「生態ピラミッド」など、近代生態学の基礎概念を確立した人だ。著書『侵略の生態学』(1958)で、害虫や樹病のパンデミックを取り上げた。自然生態系は複雑なので安定だが、農耕地は単純なので不安定。だから、自然保護が重要で、有用種以外を抹殺する傾向にある人間の関与する生態系は脆弱だと指摘した。
もう一人は、「虫見板」を用いた「減農薬稲作」の創始者、百姓で思想家の宇根豊だ。「『害虫』とは、大発生しなければ、『ただの虫』。『益虫』とは、『害虫』がいなければ困る虫。『ただの虫』とは、生態系を豊かにしているただならぬ虫」という彼の名言は「農と自然の研究所」の活動や、改定を重ねて滋賀県立琵琶湖博物館に引き継がれて2020年時点で6305種となっている「田んぼの生きもの全種リスト」などに結実している。
キーシング博士は、こうした生物多様性の先覚者の直観に科学的根拠を与えたとも言えるようだ。
(京都大学名誉教授・公益財団法人 京都市都市緑化協会理事長 森本幸裕)